「殺せ、殺すな、どっちでもよい!! 」「アイサー!!」
「殺せ」の否定
…は、「殺すな」で良いの…!?
ぜんぜんちがうよ、それは否定の命令。
(面白い導入物語を考えつかなかったので[あとでかく])
ナイショの魔力 と物語脳。(理性の限界に関連して)
「見えざる神の手」(隠された必然)は、一見謎めいて見えるが、
「人為的に見えない見かけをすることよって強い規範性、拘束力を発効する」という仕組みがあって、それはマルクス主義設計主義と変わらんじゃないかと。
要するに「セクシーによる手管」に、どこか似てる。
http://d.hatena.ne.jp/mind/20070608/p1#c1184855709
とりあえず人間の認知構造的に考えてみる。
1. まず、ちょっと関心ある対象について、ナイショにされると、より関心が増して探索行動が解放されてしまう…という単純な人間動物の動作原理がありそう。
2. 次に、そういう関心対象をスジガキ演出つきで料理されていると、より美味しく頂ける。。
3. さらに、料理ができてないなら、創ればいいじゃない。と、自分の妄想で勝手に美味しい設定/スジガキを創作付加してfictionのセカイに隠る…という腐女子脳も…??
どうもこういう思考パターンを私は
人間という動物の「物語脳」
と呼んでみたり。
たぶん、人間は狭い家族や準親族集団の行動を説明するモノノミカタとして、物語的な認知スキームを身につけてきたのでしょう。実際の過去の人間の行為による事件を、トップダウンに単一スレッドの過去形の言葉で語ろうとすると、どうしても物語っぽくなってしまうように言語体系ができている。単純だし分りやすい。
そして実際のドキュメンタリな語りと架空の物語とも、人間は証明手続為しに明確に区別することができない。そこから架空/ウソの物語 ;神話,伝説,小説…も産まれてきたのでしょう。
さらに、集団が大きくなって事件が複雑化しても同じまま。(実際は、ついったみたく、ボトムアップの複数スレッドが着かず離れず絡まり合ってて、非常に複雑。)
そこで意思決定の物語 ;政治ゲーム的物語を考えてみる。
1. 意思決定物語ではそのテーマは巧妙に隠されている(またはそもそも無い!?)。
2. それを自力で読み解く共感/体感する遂行/プロセスのところに、物語を読む/体験する醍醐味がある。そのプロセスのHW的自動実行において、読者/プレーヤはどんどんその物語のセカイに関心を見出し/引き込まれていってしまう。
最初からテーマや意図が解り易く明示されていたら、
「time waits for no one ←ハァ@@? (そんなの知ってるよ、だから何よ)」@時かけ
で終わってしまうわけですw ;犯人はヤス
これは人生/自分探し/民族の独自性探し…も同じ。;ユダヤ人の選民思想とか
3. 意思決定過程を秘密にしとくとカリスマ性が上がる
…って非民主主義指導者のお約束っぽい。
――対妄想家攻撃力up! そういえば政治の世界には空気を読む風見鶏が多い。
真の目的の隠蔽…は人狼ゲームっぽい。陰謀史観とも繋がるかも知れない。
cf. 人工知能のソースがバレたとたん、知能と認めてもらえなくなるジレンマもあり;
- 「自然な恋愛」の例えは…よくわかりません><。
ただ、一方が完全に他方の術中に嵌っちゃっている予測可能性/非対称性があると興醒め、儀式化していくとは言えそう。
- 「あんなバカ殿が勝つなんて、これはもう神の意志の"必然"だったんだ」
…という「奇蹟」による神格化、伝説化。 cf.;死から復活したイエスは神の子
なんかこれも魔女狩りロジックの裏返しのようなw
――証明に失敗したことを利用してメタ証明するという、アレ。
近代でも、西へ西へと併合するUSA manifest destinyの話とか、いろいろありそう。
「民主主義を貫徹させないがための、『法の支配』の仕掛け」
とは、自由主義を目的とする限定された民主主義、つまり立憲民主主義。
一 その自由主義の性質とか前提条件とかについてですが、 ハイエクの自由主義は、あんまりお気に召しませんでしたようで…@@!
その手の政治本を読んでない(><)私から2点ほど。
1. ルールに従って行われるゲームは、「扱い」(――ie. ルール適用)の正義を知ることが出来ないという点。ここが、自己統治ないし自律的決定・制御の根本的限界を表わしているようで、まず気になりました。
――知の限界とは「理性の動員の要請」かぁ。それは当り前とも思える?
フランスに見られるような「理性」に至上の地位を与えるような合理主義には常に反対していた。人間は現存の秩序をすべて破壊し、そこにまったく新しい秩序を建設できるほど賢明ではないとし、既存の秩序、つまり「自然発生的秩序」の重要性を説いた。
フリードリヒ・ハイエク - Wikipedia
2. それなら、何かルールの枠組みを外から(地に着いたカタチで)根拠付け制約するもの
があるのではないか、と示唆される点。 ――またまた自然法/根本規範かよ!?
つまり、法の支配という枠組みは、自らその法の支配の正当性を主張できないのだから、日々の歴史すなわち正統性(≒慣習秩序)によって根拠付けられるしかないのかなぁ…ってこれは
「慣習法の支配?」
とか。とくに、人権保障;コロシテハイケナイ のルールそれ自身が時代場所を超え普遍的に地に着いた正当性の根拠を持つかは微妙…。
たとえばイラクみたいな力vs力な戦乱の地とか、そういう戦乱の時期においては、
- 法令集と、それに基づく
- 治安/実効支配秩序の安定(――法による制御結果かつ、法適用の前提条件)
とが、ぐるぐる同時併行的に実現されるしかないようにも観えるし。定常状態に向かって一直線に実現はできなくて、一見遠回りな迂回(万を救うために百を犠牲;;)が必要になる場合もあるはずだし。
3. こういう曖昧模糊ぐるぐるな慣習法の上位に重なるレイヤーとして、「下位の慣習法を形式化して安定的に運用するシステム」(形式論理の集合と判断執行機関の実体…と被治者の順法精神/法の権威?)こそが、政治形態としての法の支配の正体だとも思えてきます。
そして、このように容易に変更結果が予測できないシステムの根幹は、主権者の政治的意思決定によって「望む方向」に任意に大きく動かすことが出来るものではなく、「民主主義を貫徹させない」とは、この意味を含むものかもしれません。(憲法改正限界論にも繋がってくる?)
ハイエク先生こんにちは、そしてさようなら??
非ハイエキアンによるハイエク思想地図 〜 法の支配って何処?〜(草の根保守必見か)
本を読んでなくても通じるレジュメ図、読ませてもらいました。以下、感想と発展。
憲法(の支配)を すこぶる実用的な道具 として使用することを覚えた都合良くないYAHOOどもによる抵抗の実践(長;
「それでも全体主義は回ってる」
http://d.hatena.ne.jp/YOW/20070509/p1
のである、と。
内心は不服従でも、ポーズでは従属してくれる人民というのが、
支配側にとって、最も都合の良い人民である
に対して、
面従腹背: 内心の反抗心と、外面の服従にしても、 踏み絵/嘘発見器,MRI検査,匿名掲示板…のように、地に着いた感情(;怒りとか) は やはりある程度(――抑えきれず!) 自然に 漏れてくるので、速断は出来ないかな。
と応じたところ。
やはり、家族が戦争に引出されて戦死したり、内戦で犠牲になったりしたら、その怒りを舌を出すぐらいで発散はできないだろうなぁ。こういう自然な痛みに共感して立ち上がる人々も多いだろうし、その原因となる人間たちが明かで在れば、実力行使も検討するでしょう。 つまり、形式は常に実質的に破綻する危険を内包している…。
で、以下は、コメント欄に書こうと思ったけど、お約束どおり長くなったので、エントリーに捏造!
『1984』はまだ読んでないのですが、
『キリングフィールド』というカンボジアポルポト支配を扱った映画にはショックを受けたことがあります。
>実の子ども達に密告され…
>その緊張感が逆に、日常を濃密にし、老いても惚けにくくなったりして、一度味しめちゃったら、案外たまらん世界かもしれません(ぉぃ
ちょ、これは…、遅かれ早かれいつかは壊れるジェットコースタについ乗りたくなる気持ち><。 死と隣り合わせであってこそ、現在の生命が煌めきを増す、みたいな。。(死ぬのが絶対に嫌なら、PC/ゲーセンで「virtualな」ジェットコースタ(simulator)に乗ればよいのだし)
…て、リアルな現物の命が実際に壊れちゃったらやっぱり泣きますってば;;
八月革命説
「もっぱら」外国勢力の「援助」によってしか達成し得なかった革命であったとすると、、何ともカッコのつかない12歳の子供の「革命」ではありますが…;
<押しつけ憲法論の根拠としては、
外国の実力占領 →傀儡政府 →国民に革命/憲法制定の意思なし =>憲法に瑕疵;無効
という流れが考えられましょうが、
それだと60年間無効な統治を続けてきたので、「大日本帝国憲法が未だ有効であることを確認する」というのが筋になって大混乱を招くことに。
むしろ、当時の打ちひしがれた厭戦空気/国民意思を実質的に考えると、
法的にこの瑕疵の原因や、結果的瑕疵自体、が無かったことにする、あっても治癒;追完する法形式的理論は、各段階で考えられるので、結局は現行憲法に対するネガティブキャンペーン、改正/新憲法制定運動の材料にしようという政治的な問題にすぎないようです。
憲法保障と人権保障 についてですが、
社会契約論etcは、憲法制定の背景の物語的な説明に過ぎないと思うので、
憲法が法的に有効に成立したことを前提とするなら、あとは、
――「憲法保障の最後の担い手」と呼ばれる
をまずは形式的に考えていくことになりそうです。(その背景としては実質的に社会契約論的説明も出てくる)
♪imagine all the people… だけだと、ココロの中での(麻薬的にvirtualな!)ことに過ぎない。けど、やはり人間は自律的な意思に基づいて行動する動物だから、そのimagineも最初に必要なことで、その具体的顕われこそが、この両方の権利の投票/実力行使となっていくのでしょう!!
憲法保障/ゴケンゴケンと咳してるだけだと、現代版「国体の護持」のようなものになって、手段が目的化、規範(もその実効性も)が形骸化してしまう…。なので、人権保障 ;平和保障/人間の安全保障に役立たない憲法なんて なんぼのもんじゃい という、根本目的について全員の共通認識を深めることがまず始めに重要なんだろうなぁ。
日本で上手い政治ネタのお笑いが無いのは、
> ひとえにそのことについて不勉強で知識を積んでないから
これに加えて、表現の受け手としての視聴者の政治的リテラシの問題
もあるでしょうね。まずは、
- 対立緊張的に筋道立てて話し合いを進めて
いく訓練とその観戦の訓練を積まないと、(←→;朝まで生テレビの終始混沌とした様相)
- 意図的に型を崩すことにより産まれる緩和の面白さ
も感得できないということなのかな。
とくに、ほうぼうのブログなどを観ていても、コメント欄に直打ちするせいなのか、その場その場の揚げ足取り的な乱戦になってしまいがち…(→コメント編集欄をCSSで拡大しましたw)。日本のお笑いのセカイでは、手続技巧的に突き詰めて空回りさせてくような笑い(;『RED DWARF』『モンティパイソン』とかのsit comみたいなイギリス的ブラックジョークw?)よりも、笑いによって周囲との同調を確認し安心する目的面が強いような気がする。
――あ、そうそう、聖とか権威性の問題だったw
けっきょくは、おそれおおい聖職者や権力者を弄って、自分にはね返ってくるのにおじけづいている/覚悟がないだけなのかもしれません。 >>抵抗権
「選挙が正しい」かのような発想
そう。投票は(自分勝手な濫用もやむを得ない)権利であるのに、公権力によって、
投票場に行きましょう
と催促される…。まずもって、
よく考えて投票するかしないかを決めましょう
とは言われない。
しかもその上、肝心の
よく考えて候補者を選びましょう
とも示唆してくれないのは不親切ではありますね><
最後に、やはり社会契約的説明
のとこでぐるぐるされているみたいですが、
自由なプレーヤが活躍する私法における、信義誠実の大原則(公益/公序…公権力??の確立)について数理的説明を試みようと私がぐるぐるしていた昔のレポートが何か参考になるかもです。
http://mrmind.hp.infoseek.co.jp/mindwrld/singR11.txt ひとことでいうと、
現在の実質的状況(現状)は、形式的法システムを通じて間接的に、「美しく自然な」wあるべき将来のvisionに引寄せられていく、と。(なんか法(律!?)の支配みたいですね)
2. 唯名論って…名前と内容との逆転??
言語と指示内容の話なの?
ミカンという果物、神という至上の存在、自然法という規範、などの
http://d.hatena.ne.jp/YOW/20070504/p1
「価値」が確定して先ずあってから、それを指示する名前、用法がある
のではない、という、大逆転です。
……名前や用法といった「位置・場所・フレーム・凹」の方が、中身に対し「常に・既に」先立っていると。
…偉い哲学者の考えはよく解らないけど><
私はこの話を初めて聞いて、ジュウシマツ♂の歌の話を思い出しました。
ジュウシマツの歌で「言語の起源」にせまる
簡単に言うと、ぼんぼんニートのジュウシマツ♂は♀を引き付けるために、いろいろ無駄な遊び/知識や歌を身につけてアピールするようになってしまうという話です(違う;
無駄な歌と言っても、親/おじ♂の歌を承継し独自のアレンジを加えていくので、どんどん複雑化したオタク体系を身につけます。そして♀はその複雑さ自体に惹かれていく傾向が生来的に備わっているというのです。(性選択の一種)
性選択は、生存選択という歯止めがない限り、生きるためには無駄でも何でも空回りしてしまう性質があるので、あと数百年すればジュウシマツの大脳は肥大を始めるかもしれませんw (これって自然のコトワリ??)
この岡ノ谷一夫先生は、人間の言語の発生についても、まず無意味な歌/言語発音の体系が発達し、その後に、個々の歌記号に意味がだんだんと付与されてきたのでは、という仮説を唱えています。
ただ、実際には、動物;人間 には目や耳などの感覚入力器と環境改善行動能力が備わっているから、記号/象徴とその指示する実体内容とは、一定の繋がりを持つはずだし、記号体系と実体体系がぐるぐる回って連続的に複雑化していくのでは、というのが私の考え。ただし、「価値」のように、「実在」なのか疑わしいモノについては、唯名論みたいな逆転現象が多いのかなぁ??
そこで、ようやくYOWさんの追っかけてるテーマの
なぜころ: なぜ人を殺してはイケナイか?
の問題に移れるわけですね。
- 「人(仲間)の命は保護する価値がある」という実体的価値、保護法益の実体が先なのか、
- 「仲間は殺すな(非仲間は殺してもよい)」という強制命令、規範体系が先なのか、
――あ、これは刑法で言う <違法性の本質 の論点だ。
どういう解決の道筋が見えてくるのか、期待して待ってます。
と、その前に、
かつて「自然状態の未開人」とか、「『テロとの闘い』の例外状態」みたいなかたちで、
規範に「例外の可能性が開かれていること」が、抜け道のようなかたちで「強行規範」の絶対性が開かれることが、本当は内心期待されている・必要とされているのであって、「例外作りが自己内生産される」ものでもある、
ここのところがちょっと私には分り難いので追加説明plz!
「自然法」はやっぱり顔を出してくる?
1. 空気論 王様の服は美しい?? サンタクロースは存在する??
→「素朴な信じる人」を見守る振る舞いというの自体が、実はクリスマスの継続を一番支えている。
http://d.hatena.ne.jp/YOW/20070504/p1
これですね、「権威」の1つの根拠は、宗教/信仰の実践にひっかけられていると。ブートストラップ起動(自分の靴革を引っ張って沼から脱出するほら吹き男爵)みたい。昔からずっと続いている信仰とか、家柄;皇統 とか…、も正統性の根拠になるらしいですし。
裸の王様の「新しい服」に万歳する人々、みたいな、「地に着かない共通認識」ですよね><
これが支配者(人または法)の権威を支えていると。(地に着いた根拠の探索は別途問題)
- サンタクロースの場合はナイーブ/素朴な子供を保護するため、
- 新しい服の場合は自分の権威(服が見えるという頭の良さ)のため
という部分が異なりますが。嘘からでた真みたいな。
こういう空気は、平時には統計的な大数の法則で安定してますが、
地に着いた根拠(fundamental/自然法??)に合致してない場合は、何かのきっかけで
容易にガラッと相転移が起こりそうです||| ;8月15日とか、通貨危機とかもそうかな。
ところで、大数の法則に引っかけなくても、人々の頭にある記号式の同一性に引っかけると、
自己実現的なパラドックスが構成できます。以前の記事から引用してみると、
http://d.hatena.ne.jp/mind/20051029/p1
C「もし私の 今 言ったことが正しいならば、サンタクロースは存在する」 「きみはどう思う?」 B「もし先生が正しい場合に限りますけど、サンタクロースは存在しますわw」 C「それって私の今言ったことと「文字通り同じこと」だから、 私の今言ったこと は正しいってことだね?」 B「ぇぇ…、はい。」 C「なるほど…、Bくんによれば、私は正しいことcを言ったらしい。すなわち、 『c: もし私の言ったことcが正しかったなら、サンタクロースは存在する。』 しかも、Bくんによれば、 私の言ったことcは正しいらしい。 したがって、サンタクロースは存在する と無条件に認めるのね、私と違って、きみは。ふーんw?」 B「(…そっか、サンタさんってホントはどこかにいるのですねー@@??)」
これではまるっきり地に着いていないww 空中の形而上学/記号論理学…。
「居るから居るんだ」「正しいから正しいんだ」
と変わりないようにも見えますが…
なんか関係ありそうでしょうか…@@?
そうした扱いの空気状態が、実は<法>の純粋な権威の発効そのものとなっている。