★人々の「正義」のジャンケン均衡

id:mind:20040413で、人々の力的均衡におけるジャンケン関係
というものを考えてみた。
 力の強さ、というのは冷酷なもので、
戦わせてみれば一目瞭然、まさに、弱肉強食ということだ。
――非推移的なジャンケン循環均衡になっちゃうこともあるけど。


 これに対し、今回は、力mightではなくて、正しさrightのジャンケン関係についてw
文化の多極化のところid:mind:20040416でも触れたのだが、
「正義」というのも、文化によって異なるみたいで、
 WASPにはWASPの「正義」、
 ムスリムにはムスリムの「正義」
があるようだ。
 正義を測るのに、異なるモノサシを使っているのでは、
そもそもそれが同じ対象を指しているのかについてさえ疑わしくなってくる。
これが、正義観の相対性、価値相対主義か否か、ということなのでしょうが、
 この点について、私は人という知的存在について限定すれば、時間、場所、文化に関わらず普遍的に正しいもの、それを測るモノサシはある、という立場です。
――何を言っているか分からないでしょう?私もよく判らないのですが、
――たとえば、神に生贄として人命をささげる、というようなのはいかに伝統的な民族文化としても、それは絶対に悪いと判る、ということです。
――同じ理由で、死刑も悪いことに違いはない、という立場です。
 ただ、世の中には、絶対に間違っている、とは言えない程度の「正義」もたくさんあることもまた確かなので、
――いまのところ、普遍的なモノサシについて合意が得られていないにすぎないかもしれないけど
ここでは、ある人々の集団(民族?)に支持される規則ルールを正義というに留めておく。
 つまり、正義ということを、多数決で測定できるもの、"支持"に置換えて考えることとしておきます。


 この立場に立ったとき、またもやジャンケンに染まったお目々で眺めると、
現在の地球世界においては、
支持の3レベルというのを観てとることができる。
即ち、正当性の統合継承の連鎖をみると、
1国民の多数決 諸民族(人口比例) > (国民)国家
2国家の多数決 (主権)国家    > 国連(など国際機関)
3国連による支持 国連など    > 諸民族の人々
となる。

 1は、多くの民主国家で選挙という手続きが決められているが、
そうでない国家においても、国民の多数の支持を得られていない政府というのは、その存続に大きな弱点を持つことになる。


 2は、国連加盟国において成立っているが、
  人口に比例した投票権の加重がなされていない、
    ――そもそもなぜ各国政府を通じた間接選挙なのか
  安全保障という極めて重大な案件について5大国に拒否権が与えられている
など、力の多数決ではなく人々による支持の多数決という観点からは不徹底である。


 3について、あまり意識されてこなかったと思うが、
――各政府をmemberとする自治clubのように運営されているように見える、
――人々はダシにされているだけで、政府間の外交の円滑を図るための組織のように見える。
すると、国連の決定が国内問題について何やかんや言うのは内政干渉の問題になるはずである。
――そもそも内政干渉は常に悪いのか??単なる縄張侵害だから?すると、お上ならば許される?いや、マグナカルタに反するからダメ?
 しかし、日本人を観ても判るように、国連の決定は、あたかも西欧でいうローマ法王のお言葉のように、
地球世界のあらゆる問題(;とくに人道問題)について、一定の正当性を持つように受取られる傾向がある。


<正義の3均衡と、力の3均衡と の関係であるが、
民族、だろうが、政府、だろうが、国連だろうが、
人々あるいはその直接的間接的な代表に違いはないので、
力の均衡における民衆力の位置に組込まれる。
 したがって、支持というものは、
軍事力への恐怖を通じては得られないが、資本による生活利益の提供によって得られる、
 正義のジャンケン均衡は、
  軍事力には耐性があるが、
  資本に対しては弱い。
お金の力で簡単に歪めることができるのである。
  

 また、力の3均衡は、人の集まりに普遍的に妥当する理論であるので、
1,2,3というそれぞれの支持の場面に当てはまる。


(つづく)
ボードゲームにしても複雑だなぁ
こんなことじゃカードゲームへの道は遠いな
もっとも、やりこんだものって紋章使いぐらいなんですよね。
http://www.os.rim.or.jp/~bqsfgame/sub174.htm
トレーディング〜って、メンコ分捕られるようなものという偏見があるので:-p